またの名は
酒と、・・・やはり酒ばかりの日々
(実録のようだがあくまで小説)
仕事を終えて駅まで歩く途中に蕎麦屋ができた。
どちらかというと蕎麦は好きなので寄ってみたらけっこう旨く、ちょくちょく行くようになった。
ご主人はたまたまぼくと同い年で、もともと蕎麦屋の息子、ずっと実家で仕事を手伝っていたが、お兄さんが跡を継いだ際に独立を決心した。
さる著名な老舗に頼みこんで三年間修行をさせてもらってから開業、その直後にぼくが通い始めた。
などというご主人の話が聞けるくらいにお店はひまで、せっかく身近にいい店ができたのに、いつつぶれるかと、実はひやひやしていたのである。
つぶれてしまうと、旨い蕎麦を食うのに、また上野や浅草などへ出向かなければならない。
そんな店でも、ぼくみたいな客はほかにもいて、ときどき顔をあわすようになった。
ぼくは勤め人とはいえ普段着通勤で、仕事でもそのままだが、ぼくや店主と同じくらいの年の彼は、いつも暗いスーツを着け、ネクタイを締めていた。
おたがいにひとり客なのでカウンターに座り、ぼくは焼酎党だが、彼は日本酒を冷やで飲んだ。
「よくみえてますね」
そう声をかけてきたのは彼のほうだった。
「ええ、仕事の帰り道にいいお店ができました」
「お蕎麦、好きですか」
「好き、ですね。ほんとは味なんてわかりゃしないんですが、だから、蕎麦ではなくて蕎麦屋が好きなのかもしれません」
「なるほど、蕎麦好きではなくて、蕎麦屋好きですか」
彼は以前、浅草の方にもいたことがあり、あちこちの店の思い出話をした。ここ数年、ぼくが試しにいった店々で、彼はそうとうの蕎麦好きのようである。
同じようなタイミングで蕎麦切りのもりを頼み、ぼくが薄くなった芋焼酎のロックをすすり、彼が徳利を逆さに振っていると、店主は蕎麦を茹でるほかに、せっせと何やら作っている。
出前はしない店なので、自分のまかないかなと考えていたのだが、実はそうではなかった。スーツの彼が蕎麦を食べ終えると、どんぶりものを二つ、お持ち帰りするのであった。
「夜勤の部下にね」
そう言って彼は一足先に店を出た。
「どういう仕事の人ですか?」
ご主人にたずねると「詳しいことは聞いてないんですが」と教えてくれた。
「なんでも屋だって言いかたをなさってましたね。便利屋だとも。人をつかって仕事をさせて、あの方は社長だか所長だか、マネジメントの仕事をしているみたいですね」
「なるほど」
「ここんとこ、うつわ持参で、きつね丼を二つお持ち帰りになるんですよ。夜勤の人が二人いるんですかね、でもウチはいろいろできるのに、毎回きつね丼指定なんですよね」
「ああ、この京風きざみきつね丼ね。京風って、なんか美味しそうですね」
「今度いかがですか?」
「うーん、お蕎麦と両方だと食べ過ぎだなあ」
何度か顔をあわせているうちに、マネジャーが留守番をして夜勤の人をここへよこしてみては、という話になった。
あいかわらずお店はひまで、三人でなんとなく旨いもの談義などしているうちに出てきた話だった。もっとも半分冗談みたいな話だったが、彼は「そうだなあ、忙しいわけでもないし、たまにはいいかなあ」と考えた。
「あの、具体的にいうとどういうお仕事をなさっているんですか?」
「具体的にいうと何でもです。抽象的にいうと世のため人のためになることすべてです。夜勤といっても緊急の仕事に備えているわけではなく、業務計画の中で、夜でないとできない、あるいはしにくい作業もあるということです」
「はあ」
「だから三人でここへ来てしまっても、場合によってはまるでかまわないわけです」
「それなら是非いらしてください」
ご主人は熱心に勧めた。
なにしろひまなのだ。ひとりふたりの客より三人余人のほうが良いに決まっている。
「それにしても、どうなんですか、いつもひまそうですけど」
「いやどういうもんなんでしょうね。昼は忙しいんですよ、たまたま昼だけやりたいっていうアルバイトがいて毎日来てもらってるんですけど、それでもいっぱいいっぱい、夜の分の蕎麦がなくなるんじゃないかと心配になる日もあるんですけど、なぜか夜はこんな日ばかりで、おかげさまで長期研修の札は出さないで済みそうですが、このへんの人たちってみんな真面目なんですかね」
「まあ、お店はつぶれないで済んでるし、私らはゆっくり飲めるんだから、町の人たちが真面目なの、いいじゃないですか」
便利屋のマネジャーが言って、日本酒のおかわりを頼んだ。
数日後、いつものように木の重いスウィングドアを押しあけると、それまで使われているのを見たことがない奥の個室から若い女性の声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」というご主人とレギュラーのおばちゃんの挨拶につづいて、やはり奥から「原島さんかい、一緒にどうだい」というマネジャーの声が聞こえてきた。
「どうぞ」とおばちゃんが手で案内する。夜勤の部下というのは女性なのか。世のため人のため女性が夜する仕事とはいったい何なのか。
「こんばんは、お言葉に甘え・・・」
目を疑った。そしてぼくは自分の想像が実は限りなく真実に近いのではないかと確信した。
マネジャーの左右にはべっているのは、それはすばらしい肢体をもった若い女性であり、ひとりは黒、いまひとりは真紅のノースルーブのタイトなワンピースを着ていた。
テーブルにさえぎられて見えないが、ミニに決まっている。黒いほうは肩まで赤いほうは背中のなかばまで、まっすぐに髪をのばしているがその髪はがみごとな小麦色だった。
脱色したうえに軽く染めたという感じか。顔立ちはまさに日本人だが、肌が西洋人のように白く、こんな女の人たちの夜の仕事といえば、やはりある意味世のため人のためだろう。
「びっくりしたかい?」
「びっくりしました」
「まあ、今晩はわたしのおごりだ、こいつらにつきあってやってくれ」
テーブルの上にはかたづけの追いつかないジョッキが林立しさかなはどうやら鶏肉のタタキに、さつまあげのようだ。マネジャーはいつものように鴨ぬきで冷や酒をやっている。
「こっちの赤いほうがシシー、黒いほうがコマコ。本名じゃないが、不便はないだろう」
「どうも、原島健一といいます」
ふたりとも衿ぐりの大きな服なので目のやり場に困り、おばちゃんに救いを求めた。
「すいません、私にも生ください、大で」
この店では珍しく、大手メーカーの量販品ではおそらくいちばん旨いであろうと思われるビールをタンクで入れて、生ビールとして出している。市販されている缶を買ってもやや高価なものだから、大と頼んでもビアホールなどでよく見るでかいジョッキでは出てこない。大きめのグラスという感じだ。
運ばれてくると、若いふたりが飲みかけのジョッキを上げて
「かんぱーい」と言った。
「よろしくー」
「よっしくー」
「どうも」
残念ながら貧乏で行ったことがないが、クラブ、とか、キャバクラ、なんてとこへ行くとこんな感じなのだろうか。
「原島さんは何をめしあがる?」
「ええっと」
浅草雷門近くの老舗を例にあげるまでもなく、もちろん例外もあるが、蕎麦屋のさかなは種類が多くない。蕎麦そのものが《ごはん》ではなく趣味食であり、酒の菜になりうるものだから、ごてごてとおつまみメニューを揃えるには屋上屋を掛けるのきらいがあるのだろう。
「今日は、なまゆばと天ぬきを」
おばちゃんが注文を控えるのに、いつも通り芋焼酎のロックをつけたした。
「あの」
「なんだい」
ぼくはマネジャーに尋ねた。
「こちらのお姉さんがた、これ制服ですか、仕事の」
「いや、趣味だ」
「誰の」
「本人たちと私」
三人が爆笑した。
「いや、なんでも屋とか便利屋とか聞いていたんで、たとえば、お年寄りの家庭の草むしりとか、親が病気になった時のちっちゃな子のお守りとか想像していたんですが、そのお姉さんたちが揃って、全然そういうのと違うカッコしているもんで」
「頼まれればするかもしれないけど」とシシーが言った。
「そういう依頼はまずないわねー」とコマコが引きつぐ。
「でも、やったことはないが」とマネジャー。
「ふたりとも犬の散歩なら上手なんじゃないか?」
「そういえばそうね」
「これからそれで稼ごうか?」
なんだか貧乏じみた話になったが、それでは普段はどんな仕事をしているのか。例のあちらの仕事ではないのか。そういえば・・・。
「そういえばマネジャーさんのお名前、うかがってなかったですね」
「所長はね」とシシーがジョッキをとんと置いて嬉しそうに言った。
「水無月っておっしゃるのよ」
「水無月って、あの六月の?」
「そう、ちょっと珍しいでしょう」
本人が答える。
「下の名前はね」とコマコ。
「トウセイ」
「どんな字ですか」
「親もいいかげんでして、田植えの季節だから、稲が生える、場合よってはイナオイって読む字ですよ」
「水無月稲生。原島健一より遥かにカッコイイですね」
「名前だけカッコ良くてもなあ」
ぼやきながら水無月所長は日本酒をおかわりした。三人ともかなり飲んでいるはずなのに、酔っ払ったー、といういかにもな雰囲気には全然ならない。
所長はさもありなんだが、若い女性ふたりが意外だ。今までにもおそらく彼女らを飲みに誘い、酔わせて雰囲気を作っちゃおうとした男どもがたくさんいて、ことごとく挫折したに違いない。
「原島さんは」と所長が言った。
「夢ってあるかい?」
「夢、ですか。それは夜みてはうなされる夢じゃありませんよね」
「もちろん未来への希望とか願望とかいったほうの夢だけど、うなされるんですか」
「まあ、いやな夢はときどき見ますが、それはそれとしてご質問の夢ですね。そうですねえ、もうこの年になると夢も希望もないって感じですね。というより私は小さな頃から、そういう夢って持ってなかったような気がします」
「寂しい人生だな」と所長が笑う。
「ぼくらの世代ですと、小学生の低学年だと野球の選手とか、もうちょっと大きくなるとお医者さんとか、パイロットとか、やがて自分の偏差値がわかってくるとせめて一流大学に一流企業。
でもそういうのなかったですね。私の場合。どうしてなんでしょう、流れるままの人生で、でもその場その場ではべストをつくしてきたつもりですけどね」
「じゃあ、そんなだいそれた夢でなくていいや、なんかもっと身近な希望とはないかい?」
「ははは、そりゃ身近といや、社長もっと時給あげて下さいよちか、三千万とはいわないから宝くじ、十万とか当たらないかなとか」
「お金のことばっかりね」とシシーが言う。
「うん、恥ずかしい話だけと、結局はそういうことになる」
「でも、お金って手段じゃない、そのお金をどう使う人なのかってのを所長は知りたいんじゃなあい?」とコマコ。
「なあるほど、たしかにそうだ。なんだろう。ときどきこうして美味しいものを食べられる生活、不安のない老後・・・、われながらつまらないな。宝くじで十万当たったら、バス・リコーダー買っちゃうかもしれない」
「なあにそれ」
「学校で習うたて笛あるじゃない、あのでかい奴」
「吹くの?」
「コレクション。こんな小さなクライネ・ソプラニーノから、フルートくらいの長さのテナーまで五種類は持ってるんだけど、その下のバスになるとやたら高いの。安くても三万以上するんだけど、最近ね、独自の設計とかでカッコいいモデルが出てるのよ」
「暗いねー、趣味が」
「おやじギャグかましてんじゃないの」
看板の時間が近くなって蕎麦にしようとなった。所長とぼくは仕上げせいろとメニューに出ている量を少なくした「もり」にしたが、シシーとコマコはきつねそばを頼んだ。
食欲旺盛なわりに、というか旺盛にもかかわらず贅肉のない肢体ですばらしい。世の中、食べるものを切りつめても体型を変えられずに嘆く女性も多いのだ。
「ねえマスター」とシシーが店主に呼びかけた。
「はい、はい」
厨房から出てくる。
「いつもの京風もいいけど、もちょっと甘からく煮たきつね丼ってできないの?」
「あ、できますよ、次、そうしますか」
「あたしは京風がいいや」
「じゃあひとつずつで」
「シシーはこっちだが」と水無月所長が解説してくれた。
「コマコは京都のほうの出なんだ」
「なるほど」
店を出ると「もう一軒どうだい?」と所長が聞いた。そうあたたかいフトコロでもなかったが、美女に囲まれてもうひとときをすごすのも魅力だった。
「いいですね、どこにしましょう」
「君の知っているとこでいいよ」
「知っているとこというと、今の時間だと、蔵人坂下の《朱美》って店くらいですが」
「ああ、あそこか」
「知ってますか」
「入ったことはないが、魚が旨いそうではないか」
「いいもん出してくれますよ」
「行こう」
【蔵 人 坂 奇 譚 - 第2回 -】に続く